連載開始のご挨拶
上原と申します。前技術顧問だった沼田理さんの後を継ぎまして、沼田さんに大変にお世話になった私が技術アドバイザーとして微力ながらゲットイットさんのお手伝いをさせていただいております。アドバイザーをお受けする際にお約束した仕事の中に、沼田さんがされていたコラムを継ぐというのがありましたが、懺悔しますと忙しさに感けて延々と先伸ばしておりました。しかし、いつまでも放置しておくわけにはいきませんので、沼田さんの最後のコラムにあった暗号化消去の話が標準規格において一定の落としどころを迎えつつある今というタイミングで連載を開始させていただこうと思います。沼田さんほど「読ませる」コラムとなるかはわかりませんが、しばらくお付き合いいただければ幸いです。
システム導入時に、運用終了時のコストを見通していますか?
新しいパソコンの起動、新しい情報システムの運用開始…いずれもとてもワクワクする瞬間ですね。これからそれらが自分の仕事に役立ってくれることを夢見て期待に胸膨らませる時間ですが、この時にそのPCやシステムを手放す時のことにまで思いが及ぶ人はなかなかいないでしょう。しかし実際には、特に企業の情報システムのようにある程度の規模がある場合、そのシステムやパソコン等の機器が途中で故障し廃棄する際や、システムを更新することになり運用が終了して手放す時のコストは馬鹿になりません。パソコンについては資源有効利用促進法に基づいてメーカーによる回収(リサイクル)と、再利用(リユース)による廃棄副産物の発生抑制(リデュース)に取り組むことが求められています(これらを合わせて3Rと呼びます)ので、購入者・使用者としてはこれに協力する必要があります。個人向けのパソコンはPC3R協会による「PCリサイクルマーク」が貼付されている場合が多く、このようなパソコンはリサイクル費用が販売価格にもともと上乗せされているので回収の際にコストは生じませんが、業務用パソコンでは使用者側の負担が手放す時に生じます。また、パソコン以外の情報機器も廃棄となると産業廃棄物として適切に取り扱う義務が生じます。企業のシステム更新においては多数の機器を廃棄や回収などで手放すことになるため、そのコスト負担は少なくなく、それを如何に軽減するかをあらかじめ見越しておくべきでしょう。
ここで情報機器に特徴的なのは、手放す時に管理を離れるものにシステム内に記録されたデータも含まれることです。そのデータの中には、自社の機密データはもちろん、取引先や顧客など多くのステークホルダの情報も含まれている場合が多いので、これらを適切に消去してから機器を管理から手放す必要があります。残念なことですが、適切にデータを消去せずに手放してしまった機器が何らかの経路で中古市場に流通し、そこから情報漏洩が発生する事故はたびたび生じています。2019年には、神奈川県庁でファイルサーバに使用されていたと思われるハードディスクドライブ(HDD)が複数ネットオークションで転売され、行政文書などが大量に漏洩する事件が起きました。今年(2026年)にも、北海道の複数の病院で使用されていたと思われるHDDがやはりネットオークションで出品され、推定で17万人を超える患者情報が流出したとみられています。いずれも、回収業者が破砕処分などの廃棄処理をするまでの過程で高く転売可能な高品質HDDを中心に抜き取られ、転売されています。今は空前のAIブームのおかげでHDDやSSDといった記録デバイス(ストレージ)の需要が爆発的に増えており、価格も上昇しています。これに伴いこれらの中古価格も高騰していますので、今後はこのような事件は残念ながら増えてゆくだろうと思います。
ファイルはなかなか完全に消せない
このような事故を防ぐには、各企業がストレージやそれを内蔵するパソコン、サーバ等の機器を手放す際に、自らの責任で中のデータの消去をしておく必要があるのですが、これが容易ではないのがまた悩ましく、さらにコスト上昇の要因となっています。その理由は何なのでしょうか。
まず基本的なこととして、ファイルは「削除」しても実はデータは消えていない、という問題があります。ここでの「削除」はメタデータの削除とよばれる操作が行われています。これは、本に例えれば目次にあたる「どこにどのようなデータが書かれているか」という情報だけを削除するものです。パソコン等のOSが備えるファイルシステムは、ファイルの削除時にはこのようなメタデータを削除し、当該ファイルの本体データはそのまま残しています。これらのデータがある領域は削除に伴い「空き領域」としてファイルシステムが認識しているので、他のファイルの書き込みを起こった際に上書きが行われますが、そうなるまでは適切にメタデータを修復することで元のデータにアクセス可能になります。このようなメタデータの修復を行う、無料または安価な「削除ファイル復活ツール」も広く出回っており、削除後ファイルの書き込みがあまり行われていなければ高い確率で削除されたファイルの全部、もしくは大部分の情報が復元できます。これはフォーマットやパーティション削除と呼ばれる操作でも同様であり、通常削除と考えられているほとんどの操作ではファイルは完全には消えないのです。
上書き消去は非現実的に
ではファイルを復元できないように、完全に消去したければどうすればよいのでしょう。確実と思われる方法は、空き領域も含めたストレージの全領域にわたって上書きを行うことです。多くの完全消去を謳うツールが採用する手法がこれであり、中には確実な消去のために3回またはそれ以上これを繰り返すツールも出回っています。ただ、この3回以上というのは意味が無いというのは、前技術顧問の沼田さんが度々指摘されてきたことで、米国NISTなどが定める消去に関する規格でもその効果が否定されています。実際には少なくともHDDに関しては1回の上書きと1回の検証で十分であると考えられており、現在のHDDのコントローラにはこれを自動的に行うコマンドであるSecure Eraseコマンドが備えられています。
ところがこの上書き消去、困ったことに最近は長い時間がかかるようになってしまい、実用的ではなくなってきています。理由は特にHDDの急激な大容量化です。HDDは2026年現在サーバ向けで1台最大で24TBくらいですが、今後50TBくらいまではすぐに増え、2030年代には100TBくらいまでの製品化が予想されています。一方で、そのHDDの読み書き速度はほとんど速くなっておらず、せいぜい200MB/sくらいです。つまり20TBの書き込みに100000秒=約28時間かかってしまうのです。実際には実効速度はもう少し落ちますから、20TBの上書き消去は丸2日、検証にまた2日くらいかかることになります。これが50TB、100TBと増えても、読み書き速度はそれほど速くならないと思われますので、消去に1週間2週間とかかるようになれば上書き消去は現実的に不可能になってきます。
切り札は暗号化消去
このような状況を打破するために考えられたのが、暗号化消去(Cryptographic Erase)です。最近の大容量ストレージには、コントローラ自身が暗号化機能を備え、全ての読み書きデータを暗号化して記録しているものがあります。この場合、暗号化・復号化の処理はコントローラ内で行われ、外形的には通常のストレージと同様に振る舞いますので、普段は違いを意識する必要がありません。しかしそのような機器を手放す際には、そのようなコントローラに対して暗号鍵を新しい鍵に更新するコマンドを送るだけで内容が一瞬にして読めなくなってしまいます。以降はそのストレージは新しい暗号鍵で動作しますので、通常の初期化済みストレージとして再利用可能になります。このような暗号化消去は数秒といった極めて短時間で安全な消去が可能になることから、Instant Secure Erase(ISE)と呼ばれ、各メーカーではこのような機能を備えるストレージをISEドライブ等と呼んでいるようです。
しかし全てのHDDやSSDがISEドライブである訳ではありません。そのような場合でも暗号化消去を行う方法としては、システム利用開始時からOSの機能を用いてストレージ全体を暗号化しておき、その暗号鍵を新しい鍵に更新することで消去が可能になります。Microsoftの場合、以前はストレージ全体を暗号化するBitLocker機能はWindowsの上位エディションであるProfessionalのみの機能でしたが、現在はHomeも含めてストレージの暗号化機能を備えていますので、使用開始時にストレージの暗号化機能が有効であれば、鍵の更新(ローテーション)を行うだけで瞬間にシステムの初期化が可能になります。Microsoft Intuneの管理機能には、その管理下にあるパソコンに対して強制的にBitLockerを有効化する機能や、特定のパソコンの暗号鍵を更新して暗号化消去を行う機能が備えられているので、これを用いることで安全かつ迅速、手軽に、手放す前のパソコンの内容を消去することが出来るのです。これはシステム運用終了時の機器リースバックや廃棄にかかるコストを激減させます。
システム導入時から廃棄やリースバックに備えておくのが大切
このように暗号化消去は、機器を手放す際のコストと手間を大幅に低減させてくれるのですが、その恩恵を受けるために最も大切なことは「システム導入時から考えておくこと」に尽きます。Windowsの動作する端末のパソコンについては、最初からBitLockerを有効にしておくことと、その管理の手間を低減してくれるIntuneなどの端末管理システムの導入を検討してください。サーバにおいてLinuxを利用している場合には、ISEストレージをサーバに採用するか、OSレベルで暗号化ボリュームを作成するLUCSなどを利用するのが良いでしょう。macOSの動作するパソコンは、CPUがAppleシリコンである場合は標準でストレージが暗号化されています。iOSやAndroid、ChromeOSも、方式はいくつかあるものの全て利用者のデータは標準で暗号化されており、初期化とともに暗号鍵が更新されて以前のデータは利用不可能になります。
つまり、WindowsパソコンとLinuxについて、最初から暗号化を行うように設定してからシステムの運用を開始するのが大切ということになります。システム導入時には、運用終了に伴う廃棄やリースバックのコストを見込みましょう。その際にできるだけそのコストを圧縮するためにも、最初からストレージの暗号化を考えるようにしましょう。